先日、市内の美味しい蕎麦屋で、大変お世話になっている方に夕食を御馳走になりました。
その店先に、京都龍安寺の蹲踞(つくばい)と同様な物がありました。
龍安寺の蹲踞は、「吾唯足知」(われ、ただ足るを知る)の文字が刻まれていることを御存じの方は多いと思います。
「吾唯足知」は、簡単に言ってしまえば「満足する気持ちを持ちなさい」との意味であり、「足ることを知る人は、心は穏やかであり、足ることを知らない人は、心はいつも乱れている」との釈迦が説かれた教えであります。

ただ、今の社会において、生活することが精一杯である方もおります。
その方を社会でどうしていけるか、私たちが求めている「包摂」する社会を構築していくことも大切です。
この「足るを知る」はそれぞれの個人の思いによるところが大きいと思います。
私自身もこの心境にはなかなかなれませんが、これからの社会、この教えを持ちながら「包摂」する社会づくりが必要ではないかと思います。

1972年ローマ・クラブが提起した「成長への限界」は、地球上の資源の有限性を考えた時に、これからの社会はどうあるべきかと警鐘を鳴らしたものであります。
その当時も物議を醸しだしましたが、40年経ちローマ・クラブのレポートが正しかったどうかの議論もありましたが、ここではその論議についてコメントすることは、私自身の能力からいってできません。
ただ、私自身思うことは、ローマ・クラブは「成長の質」を求め、その時々の時代・経済・環境等の変化に即応する、新しい視点を提示したのではないかと思っています。

日本の政治は、経済の発展の政策も必要ですが、格差社会への取り組みや、労働者が犠牲にならない社会の構築と、将来に不安の残さない制度・政策の構築に取り組むことであり、何度もブログに掲載していますが、日本の将来に問題を先送りすることではなく、「今、すべきことをきちんとする」ことではないでしょうか。

私自身も、日常生活の中で、「吾唯足知」の気持ちを持って生活をしていきたいと思います。




ページの先頭へ戻る